位山神話
<位山神話>
淡上方様(アワノウワカタサマ)
飛騨を治める者を上方様(ウワカタサマ)と呼びました。
初代位山命(スメラミコト)・皇統命(スメラミコト)が位に就く時は、歴代の先祖が眠る位山の一位の木の板で辞令が下りました。
『読み解きが始まる 2014/6/12〜』
いよいよ古事記の裏解釈の位山神話の読み開きが始まります。
覚えて置いて欲しいのは、日本は縄文時代の遥か以前より、原日本人として皇統が在り、3,000年前位から飛騨・位山を中心として古事記の神統が始まったと言う事です。
位山命の第35代がアマテラスで、スサノオノは出雲へ行った所から神話は始まります。これはサラスバのパラドックスとしては、地教のユーラシア大陸へ天降りした事とシンクロします。(新羅教の元と成る)
『位山神話1』
飛騨王朝は、皇祖皇太神宮の神統で三千億万年続きますが、その中の近未来縄文期の三千年前位からの神統を古事記に合わせて位山神話として話したいと思います。
初代位山命から第34代皇統をイザナギ様とお呼びします。皇后は出雲から来られたイザナミ様でした。
政略結婚では在りますが、御懐妊されていたナミ様が高山に出掛けられている時に産気づき、お生まれに成ったのが長女オオヒルメムチサマ(後のアマテラス)です。
その胞衣を埋めた所を荏名神社と呼びました。高山市荏名子町と言い地名に残っています。
弟にスサノオノミコトサマが生まれましたが、イザナギサマは幼い時から聡明で優しく、美しく神通力の強いオオヒルメムチサマに皇統命(スメラミコト)の位を譲られました。本来は末子相続でスサノオノミコトサマが資格が有りましたが、荒々しい性格なのでオオヒルメムチサマをイザナギサマは皇統に選ばれたのです。
スサノオノミコトサマは若気の至りで、飛騨を出奔し、母親の里で在る出雲へ行ってしまいました。
オオヒルメムチサマは皇統第35代アマテラスオオミカミサマと成りました。
『位山神話2 ヤマタノオロチ退治』
素戔鳴尊の八岐大蛇退治の話は古事記のハイライトと成っているので有名ですが、位山神話ではどうなっているのでしょうか?
飛騨から出奔したスサノオノミコトは、出雲へ行き、下部界層のモナドとして出雲で誕生した西暦123年生まれの男の子にウォークインします。
マルチロケーションで考察して戴きたいのですが、出雲のスサノオノミコトはシベリアや大陸から渡来して来たオロチ族の豪族達が製鉄所を造り、女を求めて荒び、クシナダヒメもかどわかされたので、この8人の豪族達を酒を呑ませて酔わせ、斬り殺してしまいます。
首領格の豪族の男が持っていた剣が、たたらで造られた鉄剣であったので、スサノオノミコトは採り上げますが、銅矛と違い草をも凪切る事が出来る程切れ味の良い剣だったので、草薙の剣と呼ばれました。
上部エレメンタル界層では、支那の国から戻ったスサノオノミコトは、山田川の上流にたむろしていた韓国の荒くれ豪族を成敗する話に成っています。(上古二十二代の神世)
『位山神話3』
話は初代皇統命(位山命)を決定した淡上方様の15代先祖の大淡上方様の時に戻ります。
今から約2,500年前頃、大神通力を持った大淡上方様が出られました。「今は平和だが、将来海から上がって来た人達が暴れたり、喧嘩する事が起きて来るだろう。その為に団結しなければならない。」と言われ、本家と分家の仕組みを作り、組織だった国づくりを始めました。
大淡上方様には三人の息子が在りましたが、長男にヤマノフモトズミと苗字を与えて飛騨の要所を護らせました。
次男にはヤマノシタズミの苗字を与えて、富山方面からの要所に住まわせられました。
末子の直系命(マッスグノミコト)を後継者にされたのです。
大淡上方様から淡上方様が出られ、淡上方様から天照大神様が出られます。
『位山神話4』
飛騨に顕われた縄文時代の原日本人は、日抱きの魂鎮めを習慣としていましたが、大神通力者の大淡上方様が顕われました。
15代後に淡上方様が顕われ、皇統の初代位山命を認可しました。
その神統の34代がイザナギ様で、35代がアマテラス様と成ります。
アマテラスの夫はオモイカネノカミで、内宮に一緒に祭られているのはその為です。
ヒルメムチノミコト(天照大神)とオモイカネノミコト(思兼神)の間には五男三女の子宝が恵まれました。
これも三五の仕組みです。
『政権では』
位山神話では、飛騨政権はアマテラスが、出雲政権はスサノオが治める事になりました。
型としては、飛騨が本家なので天教の3で、出雲が分家なので地教の5と成り、35の仕組みと成ります。
パラドックスとしては、富士が天教の3で、ヒマラヤが地教の5に成りますが、日本が天教の3で、ユーラシア大陸が地教の5として、同時にシンクロしてサラスバは動いています。
出雲政権はサラスバが重複する為に、新羅教や出雲教の勢力が混沌として拡がって行く事に成ります。
徐福伝説の海から上がる光は、海底基地から出現したUFOだったのですが、それがスクナヒコナやオオモノヌシに変えられて行きます。
太古から地底基地も海底基地も銀河連邦の前線基地として存在していました。
『位山神話5 三五の誓約』
古事記では、アマテラスとスサノオの神生み神事と言う事で描写されていますが、史実ではどうだったのでしょうか?
出雲でスサノオがオロチ族を退治して草薙の剣を手に入れた事は前に述べました。
その後、出雲のスサノオは子供や家来を大勢引き連れて、本家の飛騨に挨拶に来ました。その時に、姉のアマテラスに草薙の剣を献上しました。
飛騨政権と出雲政権が仲良くやって行く為に、ヒルメムチノミコトの三人の娘をスサノオノミコトの三人の息子の嫁にやり、ヒルメムチノミコトの息子一人をスサノオノミコトの娘の婿にやる相談がまとまりました。
スサノオノミコト達はしばらく飛騨に滞在しましたが、出雲に帰る時に適齢期に成っていたヒルメムチノミコトの長女タギリヒメノミコトと息子のクマノクスビノミコトを同行しました。
長女タギリヒメノミコトはスサノオノミコトの後継者で在るオオクニヌシノミコトと結婚しました。
その子供が出雲の支配者と成り、タギリヒメノミコトの妹二人も出雲へ嫁に行き、男子は婿に行き、出雲政権を応援すれば、飛騨と出雲はいつまでも仲良く出来ると皆が心から願ったのです。
この誓いを、古事記では「姉弟の子生みの誓い」と書いて在るので、姉弟が八人の子供を一度に生んだと誤解する人が居るのです。
『位山神話6 出雲と飛騨の決裂』
飛騨のオオヒルメムチの長女タギリヒメが出雲のオオクニヌシノミコトに嫁ぎ、幸福な日々がしばらく続きましたが、アジスキノミコト(加茂命)とシタテルヒメ(下照姫)の二人の子供が出来た後、オオクニヌシはタギリヒメや子供の待つ家へ寄り付かなく成ってしまいました。
他方、一緒に出雲に行った兄弟のクマノクスビノミコトが、崖から転落すると言う不明の死を遂げたのです。
オオクニヌシはモナドも多くヌナカワヒメ・カムヤタテヒメ・トリミミヒメなど二十余名の女に子を産ませ、ついに正妻であるタギリヒメを差し置き、スセリヒメを正妻にすると言い出しました。
オオクニヌシは39も名前を持ち、武勇には優れていましたが、女癖が悪く葦原醜男(アシワラシコオ)とスサノオに呼ばれていました。
飛騨には悪いが、自分の末子であるスセリヒメと結ばれれば出雲は安泰との考えもスサノオにはあったのです。
スサノオの娘のスセリヒメと自分の夫オオクニヌシが一緒に成ると、兄弟のクスビノミコト同様、自分の身が危うく成ると感じて、タギリヒメノミコトは飛騨との約束が破られた事を知らせる為に飛騨へ逃げ帰りました。
出雲王朝からの視線では、オオトシが九州制圧の途中で西都原のカムヤタテヒメとの間に出来た子供がコトシロヌシノミコトと成っています。
『位山神話7 若彦の反逆・誅殺』
オオクニヌシの飛騨への裏切りが、逃げ帰ったタギリヒメにより判りましたが、調査の為にタギリの兄であるホヒノミコトを出雲へ派遣しました。三年間連絡が有りませんでした。
今度はクニタマノミコトの子のワカヒコを出雲に派遣しましたが、やはり八年間連絡が有りませんでした。
そこで今度はタカギノミコトのキジナナキメを出雲に派遣して、出雲の様子やホヒノミコト・ワカヒコの様子をこっそりと調べる事を命じました。
ところがキジナナキメが誰かに射殺される事件が起きました。供に出雲へ行った者がキジナナキメが射殺された矢を飛騨に持ち帰り連絡しました。
タカギノミコトは自分がワカヒコに与えた矢で殺された事を知り、ワカヒコの反逆を知りました。
飛騨からは「反逆者若彦征伐」の密使が出雲に送られました。そしてワカヒコは寝ている所を射殺されました。
『位山神話8 悲しき旅路』
ワカヒコが飛騨の密使に反逆の罪で暗殺されてから、妻のシタテルヒメは兄のアジスキノミコトと供に祖母や母、ワカヒコの両親や兄弟の居る飛騨へと遺品を持って出掛けました。
ワカヒコは出雲に来てからホヒノミコトと連絡も取らず、飛騨のアマテラスの外孫と成るシタテルヒメと結婚して暮らしていたのです。
兄弟は飛騨の入り口に当たる美濃まで来て、ワカヒコの姉が嫁いでいる家に寄りました。
此処で「若彦は飛騨の使命を果たさず、更に飛騨の使者である雉名鳴女を殺した為に飛騨の密使に征伐された」と言うワカヒコの死の真相を聞かされます。
シタテルヒメとアジスキノミコトも、自分達がワカヒコに騙されていた事を知り、腰も抜かさんばかりに驚きましたが、知らなかったとはいえ、反逆者の妻とその兄の立場と成るので飛騨に入ることも出来ず、止むを得ずワカヒコの両親にだけ知らせ、美濃で喪屋を造り葬式をする事にしました。
『位山神話9 日本のルーツ飛騨より』
重要な箇所ですので、「日本のルーツ飛騨」より原文で紹介したいと思います。
「飛騨まで響いた泣き声」
若彦の父の国玉命は荒城に住んでおり、葬式の知らせを受けて、若彦の母や若彦の妻子をつれて美濃にやって来ました。
飛騨路の入口の美濃で若彦の本妻と下照姫が出逢いました。
本妻は夫若彦の死と、美しい下照姫を妻にしていたことを歎き悲しみ、下照姫は若彦に本妻や子供がいた事を知って夫の裏切りを歎き、阿遅志貴命(加茂命)は妹が騙されていた事を残念がって泣き、そして若彦の父母は、恥さらしの我が子の死を恥じて泣きました。
とにかく思いはそれぞれ違いますが泣くだけの葬式でした。その葬式をした場所が喪山として現在も美濃に残っています。
精神性高く、道徳性高く治まっていた飛騨では、若彦反逆は天地驚く大事件であり、泣くだけの葬式は飛騨中で大評判になりました。
深く恥じ入った父国玉命は、飛騨の人に合わす顔がなく、家族をつれてどこか遠くへ逃げて行ってしまいました。
『位山神話10 八咫烏とは』
八咫烏とはアジスキタカヒコネノミコトの事を言います。
アジスキノミコト(加茂命)とシタテルヒメは、飛騨に入る事も出来ず、かと言って今さら出雲に帰るわけにもいかず、結局、シタテルヒメはそのまま美濃に住み着きました。
アジスキノミコトには、祖母ヒルメムチノミコトから「国を立派にして行く様に大事業に協力するよう」命令が下り、近所に住みましたが美濃加茂市と呼ばれています。加茂とは出雲の昔の言葉で継子(ままこ)と言う意味です。
後年、ニニギノミコトが九州平定に下られ、その素子を受け継いだサヌノミコト(後の神武天皇)が熊野に上陸し、困って居る時に道案内をしたのがアジスキノミコト(加茂命)とその子や孫だったのです。
道案内を無事に終えて、美濃に帰り大八咫神社に祭られますが、
八咫烏はこの故事から親・子・孫の三代を顕わす三本足の烏として描かれています。
『位山神話11 国譲り』
古事記では、出雲の国を譲り受ける使者として、タケミカヅチの神とフツヌシノカミが遣わされた事に成っています。
昔、出雲の国は九つの国に分かれており、意宇の国がオオクニヌシノミコトの治める国でした。
オオクニヌシノミコトの謀反が明らかになった以上、国が乱れるもとと成るので、全権を託されてタケミカヅチノミコトが遣わされたのです。
オオクニヌシは後継者のコトシロヌシと相談し、勝つ見込みのない戦さを避けて、国譲りが行なわれました。
オオクニヌシは飛騨から行った大工に高い御殿を建てて貰い、飛騨のクシヤタマノミコトが料理を請け負い、見張りを勤めました。
その後、ホヒノミコトの子孫の83代目で千家氏が出雲宮司と成っています。
『位山神話12 ヒルメムチの夢見』
当時の飛騨の人々は日抱きの魂鎮めを習慣としていましたが、オオヒルメムチは、ある日、筑紫の国(九州)へ外国の人達が大勢上がって来ていて、三つのグループがあり、その内の二つのグループが互いに争い、働かないで、前から住み着いて居るおとなしい人達の貯えている物を奪い、抵抗すれば斬り殺すと言うビジョンがありありと見えて来ました。
夢見から覚めたヒルメムチは、このまま月日が経てば最後に勝ち残った集団が子孫を増やして、東の方にどんどんと攻めて来て、この島に大昔から住み着いた人達が皆殺されるであろうと、深く行く末を案じました。
そこで偵察として、自分の娘のタギリ・タギツ・イチキの三姉妹を派遣する事にしました。
数人の護衛が付き添って、鈴鹿に居るサルタヒコノミコトが筑紫へ案内する事に成りました。
『位山神話13 安川原での会議』
安川原とは、安らかに相談する皆の会議場の川原と言う意味が在ります。現在、高山市に安川通りと成って名を留めています。
高山の安川原で、オモイカネノミコトが会議長と成って飛騨中の人々を集め、今までの経過を説明しました。
二千数百年前、三回目の寒冷化で飛騨にも大雪が降る様に成っていたので、皆から良い意見を取り入れ、総ての人の合意のもとに、大和に都を移すこと、三姉妹の姫の報告を聞いてから、出来るだけ多くの飛騨の男女が筑紫平定に行き、平定後、飛騨まで帰らず、すでに準備を進めている大和に入って都を開く事が決定されたのです。
『位山神話14 天孫降臨』
古事記に書かれている天孫降臨とは、飛騨の人々が山を降りて来る様子を描いたものだったのです。
末子相続だったので、直系の末子を残して他の兄弟達は、筑紫へ向かい平定後大和に都を開く為に飛騨を下ったのです。
三姉妹も筑紫から八年掛かって帰って来ましたが、ヒルメムチの夢見の通りの状況でした。
ヒルメムチは後継者のアメノオシホミミに出発の命令を下しましたが、息子の若いニニギノミコトを代わりに遣わす事にしました。
八岐の金華山の所へ鈴鹿のサルタヒコノミコトが大勢の家来と供に舟で迎えに来て待っていてくれました。
ニニギの一行は、迎えの舟に分譲し、長良川を下り、鈴鹿の地にひとまず上陸しました。
『位山神話15 大三島へ』
飛騨から降りた(天孫降臨)ニニギノミコト一族は、鈴鹿のサルタヒコノミコトにより迎えられました。
サルタヒコはアワノウワカタ様より舟造りを命じられたヤマモトタケヤマツチノキミノミコトから十八代目の神です。
子孫を増やして、舟族と成る様にとの淡上方様からの厳命が三代前に成就して、鈴鹿で舟を持つ一大勢力と成っていたのです。
同じ様に約二百年程前に飛騨から降りて、子孫を増やし瀬戸内海を牛耳る一大勢力が在りました。
このアワノウワカタ様から命を受けたヤマシタズミノミコトは家来やその家族を引き連れて、まず先に降りた山本一族の居る鈴鹿まで行き、鈴鹿にしばらく滞在してようやく瀬戸内海の大三島に辿り着いたのです。
大と言う敬称が付き、オオヤマシタズミノミコトと成り、下が取れてオオヤマズミノミコトと申し上げ代々襲名していたのです。
瀬戸内海を治めるオオヤマズミノミコトは難波へ出迎えに来てくれて、ニニギノミコト一行を大三島へと案内されたのです。
ニニギノミコトは大三島で、大山住命の娘コノハナサクヤヒメとかねてからの約束通り結婚式を挙げられました。
この検証は、過去の宇宙連合四国オープンセミナーの時に、大三島宮へ連れて行って戴き、コノハナサクヤ姫の社や水軍の存在を検証して来ました。
『位山神話16 ウガヤフキアエズが生まれる』
一年間近く大三島に滞在されたニニギノミコト一行は、飛騨を立った時よりも遥かに味方が増えて、鈴鹿のサルタヒコの舟と大三島のオオヤマズミの舟が全部揃って筑紫へ向かわれたのです。
御懐妊されていたニニギの后、コノハナサクヤヒメは舟の長旅でお疲れに成り、舟の中で急に産気づかれ、目的地の舟入まで待てず慌てて近くの苅田の浜に上陸されました。
急いで産屋を造ったのですが、屋根を葺く事が間に合わず産まれてしまいましたので、ウガヤフキアエズノミコトと名付けられました。
コノハナサクヤヒメをお守りする人だけを残して、一行は舟入から上陸し、再び舟で国東半島を廻り五瀬川の河口に着きました。
ここから川つたいに高千穂に入りました。
『位山神話17 大和へ出発』
ニニギノミコト一行は飛騨を出発され、一年以上の月日を費やして高千穂に到着しました。
筑紫は広く、志半ばでニニギノミコトは亡くなりました。その後を受け継いでウガヤフキアエズノミコトが平定をほぼ成し遂げられ、後継者のサヌノミコトに「飛騨での約束を果たす為、大和へ帰り都を開きなさい。」と命じました。
サヌノミコトは筑紫を兄ミケヌマノミコトに任せ、兄のイツセノミコトと大勢の家来を伴って日向の海岸を出発され、祖父ニニギノミコトの通って来られた道を辿って大和に向かわれました。