Tenma channel

アセンションのためのブログ。活動は2008年から情報収集など。このブログの本体はtenma505.s1009.xrea.com/wp/にいます。

お彼岸の特別稿 郷里の群馬のお話し 4 川田篠尾神社

篠尾神社

画像:川田地区地域資源活用研究会

 

今は昔・・
 しんとうしゅう は南北朝の時代に各地から収録されたもの。両部神道が絡む。
児持山(こもちやま)大明神は独自の神話があって伊勢に認められて、神道集に登録された。この神社は児持山七明神社の一つ。
本山、子持神社の外郭になる。現在渋川市にある子持神社は役行者を祀り、独自の修験道として開山されている。
説話集。「安居院(あぐい)作」と記してあるが、具体的な編者は不明。14世紀後半(文和(ぶんな)・延文(えんぶん)年間)の成立か。10巻50条。天台宗および伊勢(いせ)神道色の濃い本地垂迹(ほんじすいじゃく)の教義と、有名諸神社の本地仏を記してある。とくに赤城(あかぎ)・伊香保(いかほ)・児持山(こもちやま)大明神など上野(こうずけ)国(群馬県)の利根川(とねがわ)西側の神社を中心にして、ほかに熊野・伊豆箱根二所・諏訪(すわ)など関東地方に信仰圏を有した有力神社については垂迹の縁起および神々の前生物語(本地譚(ほんじたん))を記してある。

お彼岸の特別稿 郷里の群馬のお話し3 子持山

 

子持山

画像:川田地区地域資源活用研究会

お彼岸の特別稿 郷里の群馬のお話し3
東京の人にしたら、この山を見ても何も感じないでしょうけど。
この山は群馬県沼田市の西にある山。ほそぼそと独自な御岳系(国常立命)修験者がいる山です。
・・もはや居たになってしまってるかもで。
 祓え給い清め給え幸え給え
私も子供のころからこの山に向かって瞑想みたいなものしてました。たまに夢に見ることがありますから、心の風景になのでしょうね。
この山で神秘体験は何度となくしています。

お彼岸の特別稿 郷里の群馬のお話し 1 始め 十王公園

変なスタンプ邪魔なんだけど、画像もらったんでこれ。
一応郷土愛は残っているんでね。💕

十王公園

沼田市の十王公園ですね。十王公園はこの時期が良いのです。
思い出があるのは中学から高校にかけてですね、子供の頃は彼女とかそういうのいちいち決めてませんからそう呼びませんが、仮にGFとかしておきましょう。
中学の時に、一人だけ大人びている女の子っていたじゃないですか、授業中になんかつまんなそーに窓の外眺めてたるような。そういうタイプの子がGFだったわけですよ。
その子とよく黄昏時にデートしてたのがこの公園で。東屋がまだあるんですね。
なんで黄昏時かというと、狭い町だから誰かといたならすぐにばれますからね、近所で薄暗くなったら会うと。彼女の提案で。
なんか、必殺仕事人の中村主水みたいなノリ。
意識したのは、席が隣になって田舎の子みたいにうるさくないので、ラッキーだと思っていたら、なんか波長が合うのか普通に話が出来るんですよね。思ったこと言えるっていいですね。
それが、ある時社会のテストで二人とも同じ点数で、99点で。
「え?ミチノリが私と同じ点数?カンニングじゃないよね?」
と言われまして。あちらが意識するようになったのであります。
・・っていうか呼び捨てかよと思った。
「うむ、カンニングするなら数学のほうだな」と真面目に答えたら、マジウケしたんですよね。真面目に言ったのですが。
そんなのがきっかけ。
「なんで勉強しないのにテストの点数がいいの?」という疑問があったらしが、そんなの授業中に覚えておく。帰ったら遊ぶのが忙しいからな。しかし、数学はその場で計算しないとだから苦手だった。
「君は授業中に外ばっかりみてるから、うちに帰って勉強しないとなんだと思うけど」と、聞いてみると。
「だって、つまらない」と言う。
「それはそうだね、なんか教育がおかしい気がする」
そんな会話から始まった。
なにかがおかしい。公立の中学、最も嫌な時代だ。人生で一番嫌な時期だった。
冬以外は週に1回はデートしてたな。よくクラスにバレなかったものだ。
高校になって彼女は女子高に行ったので、バラ売りになったが相変わらず十王公園でした。
ある秋の日、漫画雑誌のスピリッツを買って公園で読んでいたら、そのうち彼女が来てドキッとした。はーーーーー!
こんな可愛かったのか!!アイドル並みじゃんと思った。
初めて化粧してきたのだという。流石女子高生と思った。これが初恋なのかも知れない。
「いつも、漫画のグラビアアイドルばっかりみてるから、気が付かせる手段ね。これが乙女の本気ってもんよ」
「へえ、おまいはすごいな!関心した 」
「関心するところではないわ」
それから、後々にあまり会話がなくなった。一緒にいて普通。
あまり会話がなくなったが、16の頃夏祭りにでも行ってみたうが、地元の祭だとバレるという変な習慣があって、冬になって隣町の中之条の祭にバスで言った。彼女の親戚が中之条にいるというので詳しいそうだ。しかし寒いーー
神明宮で出雲式の神楽が祭の前に奉納される。
なんで出雲式が神明宮で? 後でわかったのだが、群馬独自の神道がった。
その時、静かに神楽の流れる、薄暗い曇りの空の下だが、彼女を見て涙が出た。
「なんでなくの?」と聞かれた。
「美しい」デジャブー。
「は?美しいもの見ると泣くの?」
「そうだな、そういう機能になっているようだ」
「何が美しいって?」
「・・・(高校生で君を見て美しいなんて言えない)」
話を変えて、中之条の祭って沼田と違ってるなときく。
「そうだね、こっちのが本当の祭のような感じがするの。出雲の神様が巡行するからね」
「わかるの?」
「誰にも言うな、私は神様がわかるのね。見える方じゃないけど」※ちなにに上州弁は女の人も男ことばなので、改竄なし。
「はあはあ」
「沼田の祭は神様感じないわね。いないの。だからミチノリをこの祭に連れてこようと思ってた」
・・っていうか高校になっても呼び捨てかよと思った。
「策略だったのか」
「策略とか言うな。で、この祭はどう思う?」
「こっちのがいいな、なんで今まで知らなかったのかと思うぐらい」
「よかった。ミチノリならわかると思った。女の子の友達連れてきてもわからないのよね」
(やっぱり策略じゃないかと思った)
「なんだ、少年漫画みたいな、高校生のラブラブなので呼ばれたのかと思って喜んでたのだが」
「あはあはははは! バカだね!」よくわからないがマジうけしてた。私は真面目に答えたのだけど。
「そうだ、今度はそういうシチェエーションもいいかもね!今度やろうよ」
「はあ?」
「ミチノリは天才かもね。発想が奇想天外ね」
「はあ?真面目に言ってただけだ」
「あははははは!」
・・・なんでウケるんだ。
「出雲の神というと、遠い遠い感じがしてたけど、中之条の祭だと近い感じだね。それと君の感じとよく似てる。ゆっくりゆったり、溶け込んでく感じ」と答えると。
「それが何かなのを私もいつかしりたいの」
「私の神は天理教の神だから、どんちゃんどんちゃんやって神を感じてる暇がない」
「なにやってるかわからない宗教ね。神道なのはわかるけど。で、何やってるの?」
「何やってるというと、、何やってるんだろうね?。毎月1度教会行って、どんちゃんどんちゃんやるんだ。そして1年に一度天理教の本部があるんで行くんだ」
「神様なんなの?」鋭い質問だ。
「それがどんちゃんどんちゃん神楽でうるさくて感応したことはないよ、だが奥の奥の奥に神のいるのがわかるから、親につきあってるんだ」
「お父さんの家系が神職なんで、神社の神様はわかるけどね。天理はわからないね。いるのかさえ」
・・17歳の女子高生の感度ってすごいね。
「私は気が付いたら、親に天理教の教会に自動的に運ばれたからね。歯向かう暇がなかった。そういうものだと思わされて17にもなってしまった感じがする。不幸だな」
「それほど不幸には見えないけど。逆に楽しそう。年に1回関西行けていいじゃん」
「うむ。だが神もいない教会で型にはめられて拝まされるのは小学校から疑問がどこかにある感じ」
「・・いないんだね 特殊な環境だ」
「そう、いないんだ」
「出雲はいいな。いつか私も知りたい。しかし出雲大社じゃない、あれは丁稚あげの神社だと母方のおじいさんが言ってた」
「うちの家系も出雲大社と関係がない神社だから。伊勢神宮ともね」
「そんな神社あったの?」と驚いて聞く。
「群馬独自に神が降りて神話が出来て、構成された神社の流れがあるの。中之条もその一つの町」
「( ゚д゚)」なんと!
17歳の冬だった。
17歳の高校生がするようには今思えないが・・
変わった人たちなんでしょうねえ。
続く。

脱天理教→日月神示→よひとやむみな 1983年 中学2年 古代神道のGF出会い編 

十王公園

画像は
小松姫@信之・小松姫プロジェクト 
https://twitter.com/Komatsuhime6




沼田市の十王公園ですね。十王公園はこの時期が良いのです。
思い出があるのは中学から高校にかけてですね、子供の頃は彼女とかそういうのいちいち決めてませんからそう呼びませんが、仮にGFとかしておきましょう。
中学の時に、一人だけ大人びている女の子っていたじゃないですか、授業中になんかつまんなそーに窓の外眺めてたるような。そういうタイプの子がGFだったわけですよ。
その子とよく黄昏時にデートしてたのがこの公園で。東屋がまだあるんですね。
なんで黄昏時かというと、狭い町だから誰かといたならすぐにばれますからね、近所で薄暗くなったら会うと。彼女の提案で。
なんか、必殺仕事人の中村主水みたいなノリ。
意識したのは、席が隣になって田舎の子みたいにうるさくないので、ラッキーだと思っていたら、なんか波長が合うのか普通に話が出来るんですよね。思ったこと言えるっていいですね。
それが、ある時社会のテストで二人とも同じ点数で、99点で。
「え?ミチノリが私と同じ点数?カンニングじゃないよね?」
と言われまして。あちらが意識するようになったのであります。
・・っていうか呼び捨てかよと思った。
「うむ、カンニングするなら数学のほうだな」と真面目に答えたら、マジウケしたんですよね。真面目に言ったのですが。
そんなのがきっかけ。
「なんで勉強しないのにテストの点数がいいの?」という疑問があったらしが、そんなの授業中に覚えておく。帰ったら遊ぶのが忙しいからな。しかし、数学はその場で計算しないとだから苦手だった。
「君は授業中に外ばっかりみてるから、うちに帰って勉強しないとなんだと思うけど」と、聞いてみると。
「だって、つまらない」と言う。
「それはそうだね、なんか教育がおかしい気がする」
そんな会話から始まった。
なにかがおかしい。公立の中学、最も嫌な時代だ。人生で一番嫌な時期だった。
冬以外は週に1回はデートしてたな。よくクラスにバレなかったものだ。
高校になって彼女は女子高に行ったので、バラ売りになったが相変わらず十王公園でした。
ある秋の日、漫画雑誌のスピリッツを買って公園で読んでいたら、そのうち彼女が来てドキッとした。はーーーーー!
こんな可愛かったのか!!アイドル並みじゃんと思った。
初めて化粧してきたのだという。流石女子高生と思った。これが初恋なのかも知れない。
「いつも、漫画のグラビアアイドルばっかりみてるから、気が付かせる手段ね。これが乙女の本気ってもんよ」
「へえ、おまいはすごいな!関心した 」
「関心するところではないわ」
それから、後々にあまり会話がなくなった。一緒にいて普通。
あまり会話がなくなったが、16の頃夏祭りにでも行ってみたうが、地元の祭だとバレるという変な習慣があって、冬になって隣町の中之条の祭にバスで言った。彼女の親戚が中之条にいるというので詳しいそうだ。しかし寒いーー
神明宮で出雲式の神楽が祭の前に奉納される。
なんで出雲式が神明宮で? 後でわかったのだが、群馬独自の神道がった。
その時、静かに神楽の流れる、薄暗い曇りの空の下だが、彼女を見て涙が出た。
「なんでなくの?」と聞かれた。
「美しい」デジャブー。
「は?美しいもの見ると泣くの?」
「そうだな、そういう機能になっているようだ」
「何が美しいって?」
「・・・(高校生で君を見て美しいなんて言えない)」
話を変えて、中之条の祭って沼田と違ってるなときく。
「そうだね、こっちのが本当の祭のような感じがするの。出雲の神様が巡行するからね」
「わかるの?」
「誰にも言うな、私は神様がわかるのね。見える方じゃないけど」※ちなにに上州弁は女の人も男ことばなので、改竄なし。
「はあはあ」
「沼田の祭は神様感じないわね。いないの。だからミチノリをこの祭に連れてこようと思ってた」
・・っていうか高校になっても呼び捨てかよと思った。
「策略だったのか」
「策略とか言うな。で、この祭はどう思う?」
「こっちのがいいな、なんで今まで知らなかったのかと思うぐらい」
「よかった。ミチノリならわかると思った。女の子の友達連れてきてもわからないのよね」
(やっぱり策略じゃないかと思った)
「なんだ、少年漫画みたいな、高校生のラブラブなので呼ばれたのかと思って喜んでたのだが」
「あはあはははは! バカだね!」よくわからないがマジうけしてた。私は真面目に答えたのだけど。
「そうだ、今度はそういうシチェエーションもいいかもね!今度やろうよ」
「はあ?」
「ミチノリは天才かもね。発想が奇想天外ね」
「はあ?真面目に言ってただけだ」
「あははははは!」
・・・なんでウケるんだ。
「出雲の神というと、遠い遠い感じがしてたけど、中之条の祭だと近い感じだね。それと君の感じとよく似てる。ゆっくりゆったり、溶け込んでく感じ」と答えると。
「それが何かなのを私もいつかしりたいの」
「私の神は天理教の神だから、どんちゃんどんちゃんやって神を感じてる暇がない」
「なにやってるかわからない宗教ね。神道なのはわかるけど。で、何やってるの?」
「何やってるというと、、何やってるんだろうね?。毎月1度教会行って、どんちゃんどんちゃんやるんだ。そして1年に一度天理教の本部があるんで行くんだ」
「神様なんなの?」鋭い質問だ。
「それがどんちゃんどんちゃん神楽でうるさくて感応したことはないよ、だが奥の奥の奥に神のいるのがわかるから、親につきあってるんだ」
「お父さんの家系が神職なんで、神社の神様はわかるけどね。天理はわからないね。いるのかさえ」
・・17歳の女子高生の感度ってすごいね。
「私は気が付いたら、親に天理教の教会に自動的に運ばれたからね。歯向かう暇がなかった。そういうものだと思わされて17にもなってしまった感じがする。不幸だな」
「それほど不幸には見えないけど。逆に楽しそう。年に1回関西行けていいじゃん」
「うむ。だが神もいない教会で型にはめられて拝まされるのは小学校から疑問がどこかにある感じ」
「・・いないんだね 特殊な環境だ」
「そう、いないんだ」
「出雲はいいな。いつか私も知りたい。しかし出雲大社じゃない、あれは丁稚あげの神社だと母方のおじいさんが言ってた」
「うちの家系も出雲大社と関係がない神社だから。伊勢神宮ともね」
「そんな神社あったの?」と驚いて聞く。
「群馬独自に神が降りて神話が出来て、構成された神社の流れがあるの。中之条もその一つの町」
「( ゚д゚)」なんと!
17歳の冬だった。
17歳の高校生がするようには今思えないが・・
変わった人たちなんでしょうねえ。
続く。

脱大本教、金光教、黒住教、天理教信者の救済の書の紹介です よひとやむみな

よひとやむみな

よひとやむみな




大本教金光教黒住教天理教信者の救済の書の紹介です。
恐らく私がアセンションの第一派であり、ライトワーカーなようで、脱新興宗教の雛形になったのかもしれません。30年近く前のことですが、もうこの時点で悪い新興宗教に入っている人はアウトです。アセンションという言葉でさえ知らずに生きて死んでいくでしょう。
1994年の夏ですが、大学を出てぼちぼち仕事してたら急性肝炎で倒れましてね、越谷にいたほんまもんの除霊師に祈祷とお祓いをしてもらったとき、先祖の意向を訊いたんですが。
 天理教をやってるのがよろしくない。なのであなたの父は先祖として受け入れができない」と伝えてきたのです。
退院したらですね、仕事もやめまして天理教のお掃除をせねばなりません。
誕生日が過ぎたころか、身体が動くようになりましたので、除霊師の言う通りに「天理教の宮を川に流してこい」と言われた実行して、片品川に流したのですが、そうとうビビりました。何か祟りとか罰とかあるんじゃないか?と思いましたが、その後何もありませんでした。
明治からの代々の天理教徒の本家ですので、天理教をやめるのは色々と問題もありました。賛成の親戚もいれば反対の親戚もいますが、自分に直接関係することなので、一家で辞めることになるのです。非常に闇が深い時期。
靈媒なんで、本家の先祖靈団と天理教の靈界にいるひとたちと別れているのがわかります。私は本家の先祖靈団の言う通りにしますが、まだ天理教の靈界で頑張ってる人らもいたんですよね。
こうなると、神人さんとこの小さい版です。
天理教はそれ以来封印してきましたが、2021年8月に出たよひとやむみなを読んだら、27年間の謎が解けてきたんですよね。まさに目からうろこ。
その年の晩秋か、すかいらーくでコーヒーを飲みながら、学研の古神道と大本の出口王仁三郎の本を読んでいたら、ウイエトレスが穂〇子というネームプレートでやたらとそれが気になりました。
「穂」と言う文字ですね、神道の本を買ってきて神々の名前で、穂のつく神名を調べましたが、なかなか出てきません。高千穂のことか、長野の八千穂のことかと考えましたが、それとも違うようです。
それが記憶にあってもどかしさがあったのですが、2021年8月に出たよひとやむみなに「穂乃子」とあるじゃないですか、それでこの本は本物だと直感したんですね。
その年調べてみましたら、瀬織津姫穂乃子のことで古事記で一文字しか出てこない謎の神、封印された神ですね。
27年して脱新興宗教者、脱大本教金光教黒住教天理教信者にとっての解読本であり、救済の書が世に現れたということです。
私はたぐいまれな経験をさせて頂きましたが、よひとやむみなが本物であることや、今から読んでも2025年の大峠にはまだ間に合うかも、最終組だということでFacebookで紹介させていきたいと思います。
スピリチュアルではありません。
【富士は晴れたり、日本晴れ。】
いよいよ、「大峠」の時が来た。
もう変えることはできん。
大難を小難にするよう伝えてきたが、
今となっては、
肝を据えて迎えるしかない。
天明(オカモト)に書かせた神示を、
その後、お役の人々が広めてくれた。
そしてこれまで、日本を、世界を、
人間たちを見ておった。
何度か、また何人かに
神示を降ろしてきたこともあった。
これから、
大峠」を前にした人間各々の
在り方について伝えねばならん。
これまでの神示では、
日本人に伝えているかのように
受け取られておるが、
やまとの身魂を持った人々に
伝えているのじゃ

穂乃子著『よひとやむみな』(ナチュラルスピリット)

よひとやむみな



記事『「神示」が語る「悪の仕組み」』で、日月神示の現代版とも言える新たな神示、『大日月地神示』を紹介した。  
ところが、最近もう一つ、同様の新たな神示が出されていることに気づき、読んでみた。穂乃子著『よひとやむみな』(ナチュラルスピリット)という本である。
穂乃子というのは、神示を降ろした側の存在で、瀬織津姫ということである。「日月神示」では、クニトコタチノ神とされていたが、(当時は明かせなかったものの)それは、実際には、瀬織津姫だったのだという。神示を媒介した人は、公開されていない。
 内容的には、『大日月地神示』同様、確かに、『日月神示』につらなる内容で、訴えかける力も強く、十分頷けるものがある。端的で明確な、分かり易い表現になっているのも、同様である。「日月神示」の言葉を、より現代的に述べ直しているところも多い。
初め、『大日月地神示』に比べて、よりマイルドで、若者や女性にも受け入れられやすいものと思ったが、やはり、同様の強烈さは、随所に現れている。
特に、強調されるのは、「日月神示」で言われた、すべてが「グレンとひっくりかえる大峠」が、今まさに起こっているのであることを、強く訴えかけていることである。そして、それを乗り越えるための「身魂磨き」を強く求めている。
現在は、「日月神示」で言われた「北から来る」とか、「世界中総がかりで攻めてくる」ということが、まさに起こらんとしている状況である。今年は本当に、疑いないほどに、それが迫っていることを、改めて感じさせる年になっている。
神示では、「一日に10万人死すようになったら、いよいよと思え」と言う。
タイトルの『よひとやむみな』とは、「世の人が皆止む」ということである。この度の大峠は、人間の世界だけでなく、三千世界(霊界、神界を含めた全世界)の大洗濯で、「天地が混ぜこぜ」のところまで、即ち、創造の大元のところまで帰らなければ、なされない。だから、その過程では、「よひとやむみな」ということが起こることにもなる。
カスタネダドンファンも、「世界を止める」ということを言っていて、それは、「それまでの世界を組み立てていた流れを止める」ことを意味した。まさにそれが、すべての者に起こる状況ということである。
神示では、これに関して、次のようなことが言われている。
すべては無(ム)から有(ウ)まれ、有(ウ)から無(ム)まれる。
ウムを組み立てて、力が生まれる。
この度の大峠は、ムにならねば越せん。
「無(ム)になる」とは、すなわち「皆止む」ということである。
また、そのときの状況が、次のように幾分過激に示される。
いよいよとなったら、地震、雷ばかりでない。人々みな、頭が真っ白になり、「これはなんとした事ぞ」と口を開けたまま、どうする事も出来んようになる。
四つん這いになって、着る物も無く、獣となって、身動きできん者、自ら死を選ぶ者と二つにはっきり分かれる。
そのほかにも、私的にも、印象に残る言葉が多くあった。
たとえば、新たな世界は、人間界だけでなく、動物界も変えることが、次のように言われる。
動物界は、人間界の鏡ぞ。
五六七の世となれば、トラと羊が共に眠るぞ  
また、かつての「まことの神の国の民」の「死」とは、次のような、うらやましいものであったということが、述べられている。
昔は、残さず天に帰ったのじゃ。身体さえも残さずに逝ったのであるぞ。逝く時期も分かっていた
葬式も墓石も要らんかった。周りの者は、感謝を込めて見送った。そこには、悲しみや別れを惜しむ気持ちより、
感謝と喜びで満ちておったのじゃ。誰も死を恐れてはおらんかった。病で死ぬ者もおらんかった。それがまことの神国の民であった。
「身魂磨き」に関しては、次のようなことが言われる。
我が無くてもならず、我が有ってもならず。
我のない純粋な意識が主、我は従じゃ。
我は使うもので、使われるものではない。
我から離れることで、我でできる以上のことができるのじゃ 
我は、なくすものではなくて、我のないところから、使うものだと言う。我がなくては、何の「お役目」もできないのである。
我のない純粋な意識は、「中心」にあって、そこに意識がいれば、周辺の我の感情、エゴに巻き込まれずに、それらを観察し、理解することができる。そうして、それらに癒しをもたらし、慈悲や知恵へと変容させることができる。
しかし、
そなたたちの意識が周辺にある限り、エゴは止まれん。頭も身体も口も耳も、常に動かそうとする
悪の仕組みは、人間を止まれんようにすることぞ
さらに、
巨大な宇宙の内部は、すさまじい高速で螺旋を描きながら、絶対無、絶対空という根源神に向かって進んでおる。大宇宙の進化じゃなあ
心を無にして、空に生きよ。絶対無、絶対空である大宇宙の進化を意識した神人となれよ
先にも、「有と無による世界の組み立て」の言葉をあげたが、さらに「空」とか「絶対無」という根源的なことが、言われているのも大きな特徴である。
このように、この神示では、「大峠」を超える過程に重点を置いていて、「身魂磨き」の重要性を中心に述べている。「うれしうれし」の「ミロクの世」に移行することに重点を置いた、『大日月地神示』の最近の神示とは、ニュアンスを異にする部分も多い。
それぞれの需要の違いから、このように二つに分かれて、神示がくだされるようになったとみることもできよう。